照り焼き定食ごはん大盛り

関西担の怨念自分語り

「かみさま」

10代の頃って自分のちいさな世界の中にかみさまがいる。

人それぞれのかみさまだけど、その存在によって、毎日頑張れたり、励まされたり、楽しかったり、嬉しかったり。そのひとの中でとてもとても大きな存在なのに、手が届かない存在。だからかみさま。

そのかみさまは大きくなって年が進んでいってもそのころの「かみさま」のままの人もいれば、そのかみさまを手放していける人だっている。でも、きっとその人の大切なものであることには変わりないはず。

 

わたしにとってのかみさまにあたる人は気付いた時から一人で活動していたし、形は変われども表舞台にずっといたし、というかやっぱり基本一人なので、だからこそこの先どうこうなっても個人を見続けていればいいので、極論命を落とすようなこと以外でお別れすることはたぶん、ない。

ただ今回こういうことがあって、グループそのものが愛されているこの存在にとって、誰かがいなくなるってことは、結局生まれ変わるのと一緒なわけで、いままであったものがひとつなくなるというのは、そこから先周りのすべてを変えることになってしまうんだなあ、と、知ってるけど改めて痛感したというか。

 

きっとたくさんのいろんなわたしの想像もつかないほどの人々にとって「かみさま」であったんだと思う。個人としても、グループとしても。心の拠り所だったんだと思う。すべてなくなるわけではないけどもでもやっぱりいままでと違うのはすべて違うのと同じようなことだと、思う。

かみさまがかみさまじゃなくなったらどうなってしまうのか、わたしは想像ができない。こわくて。いなくなったりしない保証はどこにもない。永遠もないし、明日なにが起こるのかだれもわからない。だって自分がこの先どうしていくのかだってわからないのに。

ただね、この先は永遠じゃなかった7人だけど、7人がいた時間は逆にもう永遠なんだとおもう。7人だった時間は帰ってこないからこそ永遠になった。まあとにかく、わたしはよそものだからかもしれないけど、会見のあのひとたちのあの顔をみて、1人も6人も、とにかくこの先人生幸せに生きてほしいなあと、思ってしまった。

 

ヒナちゃんのあの姿を見てから頭から離れてくれない。

こんなことがきっかけになるのがいいのかはさっぱりわからないけども、ただただヒナちゃんのことを、これからも見たいと思った。この先の6人がどうなるのか、見たい、見なきゃ、と。沼への本格ドボンがこんなきっかけなんてどうなんだろうって思うけど、でも、本当にそう思ってしまったんだから仕方ない。

 

よそもののわたしが触れてしまっていいことではないんだろうけども、最近考えていたことでした。不愉快になったらごめんね(最後に言うことじゃないけど)。